テレビウォッチャー

2014年5月27日火曜日

第10回:視聴率に対する「批判」

一つの番組に二つの視聴率
  今週は視聴率への「批判」について、触れてみよう。
 “尺度が2つあるのは混乱のもと。アンパイアが二人いては野球の試合は出来ないよ”といって、ビデオリサーチ社(以下VR)の創業に待ったをかけたのは、米国ニールセン社のA.C.ニールセン卿であったのは、前回のブログでご紹介した通りである。
 TBSが放送の大型時代劇『真田幸村(1968/10)』の初回の視聴率で、先発ニールセン社が28%、後発のVR社の視聴率が16%と12ポイントもの大きな「差」が出たのである。
ジャーナリズムの関心は高く“どっちの視聴率が正しいんだ”と、「正否論」が席巻したのである。ある意味では、確かにニールセン卿の予言は、的中したのであった。
 当時の「ゲスの勘ぐり」はこうである。“電通扱いの番組の視聴率はVRの方が高く、博報堂扱いはNLの方が高い”ところが『真田幸村』に限っていえば、まさに逆転現象となったのである。

サンプルには癖がある
  統計調査の基本に則って、ランダムにサンプリングしたとしても、抽出されたサンプルには「癖」が出ることがままある。そして結果に、さまざまな「違い」が生じることは、みなさんもよく経験されることだろう。
 日頃よく目にする「内閣支持率」の結果を見てみよう。朝日新聞と読売新聞、また日経新聞やNHKの調査結果に著しい「違い」が見受けられることがある。実はそれこそが、調査サンプルの「癖」の仕業なのである。各社が調査をいい加減にしているとは思わないだろう。しかしその結果には「差」が生じている。そんなとき、われわれは“どの調査が正しいのか?”とはいわない。なぜだろう? 調査にはそうした「違い」の生じることがままあるということを、われわれが「知っている」からである。
 こうした「違い」を追求したのが「TBS調査情報」で、両社の視聴率を全ての番組についてチェックし、“一部に大きな「違い」は見受けられるものの、ほとんどの番組に「差」は見受けられない”と結論づけたのであった。しかし両社のサンプルには、世帯主職業や年齢、家族人数などに、まま「違い」を引き起こす要因が見られると指摘したのである。

大宅壮一の「一億総白痴化」発言
 そうした「視聴率の差」に加え、視聴率が引き起こす弊害を指摘して評論家・大宅壮一が立ちはだかった。彼は日本テレビの『何でもやりまショー』という視聴者参加型の番組を見ていて、“これじゃあ、いかん”と、この言葉が頭をかすめたのだそうだ。

 早慶第1回戦で早稲田大学側のダグアウト上で慶應大学の(テンプラ)学生に三色旗をふらせる「やらせ」を行い、ご丁寧にもその学生が応援団からつまみ出されるまでの一部始終を放送したのを見たのだそうだ。もちろん、そのことが六大学野球連盟並びに早稲田大学の怒りを買い、同局は以後の中継を連盟から拒否される羽目となったのである。その時、大宅が視聴率に食いついたのである。事態はVR社長・森崎実との「誌上対談」へとエスカレートしていったのであった。(つづく)

2014年5月20日火曜日

第9回:ニールセンからの手紙

アンパイアは一人で十分
 いち早くわが国で「機械式」の視聴率調査を始めたのは、米ニールセン社である。この導入を巡っての日本テレビ・正力と電通・吉田の先陣争いについては、前号でお話しした。
  今回はA.C.ニールセン・ジャパンの「対ビデオリサーチ戦略」についてお話ししよう。
 ニールセンはビデオリサーチ社に先んじて機械式による視聴率調査を導入(1961年)したものの、電通・吉田は国産による視聴率調査測定機の開発の手を緩めることはなかった。それどころか、翌年3月には「放送広告調査株式会社設立の趣意書」を作成。会社の設立総会を開き、9月にはビデオリサーチ社を立ち上げたのであった。
 こうした中、ニールセン社とて手を拱いているわけはなかった。米ニールセン社長のA.C.ニールセン卿は、ビデオリサーチの立ち上げを阻止すべく電通・吉田に書簡を送りつけたのであった。書簡の要旨は“視聴率調査は一国一社が望ましい”、“これまでの開発費は肩代わりする”、“即刻、ビデオリサーチ社の立ち上げを中止すべし”というものであった。要するに「一つの番組に二つの視聴率があるのは混乱のもと」というのである。もちろん、ニールセン卿の言い分にも一理はあって、以前、NHKと電通の調査で生じた「差」にジャーナリズムの関心が集まったことは、述べたとおりである。

開発費用は出すから
  ニールセンの「一国一社」の指摘には、黙っていた電通・吉田も「開発費用の肩代わり」の一言を見逃すことが出来なかったのである。
 吉田は「胃がん」を病んでおり、その病状は益々悪化し、おそらく「ビデオリサーチ」の立ち上げが彼自身の最後の仕事であるとの思いが強かったかと思われる。吉田の執念というか、恐ろしいまでの気概が「ビデオリサーチ」設立に注がれていった。全役員を枕元に集めて開いた「取締役会」の模様は、ビデオリサーチ初代社長・森崎実の著「忘れ得ぬ広告人」に詳しいが、その男が「命」をかけた事業への思いにニールセン卿の一言がどう響いたか、察するに余りある。ほどなく、吉田は雪枝夫人に見守られて、窓辺の梅の花がほころびるのを待たず逝ったのであったという。

初代社長・森崎実
 彼の人となりを語るのは「逸話」が多すぎて、到底、語り仰せぬものがある。しかし、先発ニールセン社に、“追いつき、追い越せ”を旗印に、新生ビデオリサーチ社の経営を引き受け、TBS社長の諏訪博(当時)から“仲人はするから”という一本の電話を受けたそのとき、社長の座を二代目社長・波田野静治に譲ることを決めたことを思うとき、彼の執念も並々ならぬものがあったのである。その電話の内容とは、ニールセン社からの合併の申し入れだったのである。
 「火中の栗を拾うのか?」と電通当時の仲間たちからの慰めとも、同情ともつかぬ送辞に堪えて、よちよち歩きのビデオリサーチを引き受け、強敵ニールセンを組み敷いたとき、森崎は自分の役目を終えたと思ったのであろう。緊張の糸が途切れたのか、まもなく「肺がん」が見つかり、薬効甲斐なく、19813月、帰らぬ人となったのであった。(つづく)

2014年5月7日水曜日

第8回:機械式調査の導入 

視聴率にジャーナリズムの関心
  NHKと電通による「視聴率調査」は測定結果に大きな違いが生じた。前回お話ししたように、調査手法が異なっているのだから、測定結果が異なるのは当たり前なのだが、その違いの大きさばかりがジャーナリズムの目にとまり、“どちらの調査が正しいのか”と、大騒ぎになった。「操作性の違い」がもたらす「測定結果の違い」など、統計調査に疎いジャーナリストに、聞く耳など、あろうはずもなかったのである。
 “米・英ではメータを使ってテレビ視聴率調査をやっているそうじゃないか”、“日本では導入しないのか”と、そんな議論が業界を席巻した。

 “ニールセンを呼ぼう!”
 テレビの媒体としての優位性をいち早く見抜いていたのは、正力松太郎であった。彼は米上院議員のK.ムントの“Vision of America”に強い影響を受け、わが国にテレビの導入を図った男である。ムントの“全国ネットを含め日本ならB29二機分の予算でテレビを導入できる”の一言に心底衝撃を受けたからである。
 正力はわが国初のテレビ開局に向け、辛酸をなめる思いで奔走した。その努力が報われ、テレビは導入後わずかに6年でラジオの広告費を追い抜いたのである。“いよいよ機械式の視聴率調査を導入せねば・・・”正力の夢は大きく膨らんでいった。もちろん、狙いは米ニールセン社の日本誘致である。
 そのころ自国でのメータ式視聴率調査を立ち上げたA.C.ニールセン社は、その矛先を英国に定め、英国での視聴率調査の導入を完成させた直後であった。次のニールセン社の
照準は日本である。まさに正力の野望とニールセンの狙いとが合致した時であった。

読売・正力と電通・吉田の確執 
  正力のニールセン誘致とは別に、電通社長の吉田秀雄も機械式調査の重要性を肌で感じ、自社内で密かに視聴率測定機の開発をはじめていたのであった。たかが機械式視聴率調査の導入に、源平の宇治川の合戦もどきの「先陣争い」をしなければならなかったのだろう?
 そこには正力と吉田の男の意地をかけた「確執」があったからである。言わずと知れた正力は読売中興の祖であり、電通吉田も「鬼十則」を唱え、早朝会議を提唱して停滞していた電通を甦らせた「広告の鬼」であった。その吉田が目を付け、人・物・金を惜しまず支援したのが、ローカル・ラジオ局の開局であった。読売・正力が日本テレビ立ち上げに電通を頼りにしたのは、当然のことであった。が、しかし吉田の回答は、にべもない断りであった。やむなく正力は、宿敵であるはずの朝日、毎日に頭を下げ、出資を請うたのであった。今度は吉田の番である。“国産視聴率調査測定機の開発の目処がついた。新会社立ち上げに出資して欲しい”ビデオリサーチ社の設立目論見書を持参した吉田に正力が投げかけた言葉は想像に難くないだろう。吉田の手には他社の半額の出資額が書かれた小切手が握られていたのである。
 いよいよニールセンとビデオリサーチの視聴率調査導入計画が本格化し、ニールセンがいち早く導入に踏み切ったのであった。 (つづく)